旅バーバー
HOME 旅のはなし ルート*交通費 国の小ばなし わたしたち リンク

ヨルダン・アンマンにはクリフホテルがある。
中東を旅する人はもちろん、日本にいる人もクリフホテルを何となく耳にした事がある人は多いと思う。
イラク人質事件、香田しょうせいさんはイラクのアルカイダに殺された。香田さんはここからイラクに旅立ったのだ。
当時日本のマスコミが殺到して、ここにいる従業員サーメルも日本のテレビにその当時よく出た。
もともとはそのサーメルが「イラクについての情報を教えてくれる」ということで旅人には有名だった。
現在ではそのホトケのような優しさと笑顔を求めてやってくる人が多い。

扉を開けて出迎えてくれたのはキャップを被った30代の細い男性。
どうやらこの人がサーメルのようだ。
サーメルは13年間の毎日ここで働いてきた。毎日貰えるお昼休みの1時間以外はである。
パレスチナ人の彼の月給は125JD。1日4JD(680円)である。
そんな彼の厳しい労働条件はヨルダン人とパレスチナ人の関係の縮図のよう。
サーメルは日本人が好きで、その少ない給料から自腹を切ってネスカフェを私達に振舞う。
そしてサーメルはとても心優しく、ここに来た旅人達は癒され再び旅立っていくのだ。
そんな情報を元にサーメルに会いに来た。

ついて早速「Nes Coffe?」っと囁かれた。
甘いコーヒーを貰い、ほっとして旅人達と会話を交わした。
彼の仕事内容の厳しさはそれほど感じなかった。多くの国や、宿の管理人として同条件の人々を多くみてきた。
仕事内容だけで見るのなら日本で働いている人たちの方がずっとハードだろう。
ただし1年365日24時間勤務、逆らうことの出来ない縦社会がどんな気持ちなのかは想像もつかない。

ある日サーメルにお昼ご飯に誘われた。
次の日もまた一緒に行こうといわれたが嫌だと言って断ったらすごくすごく寂しい顔。。。
だってお金払わせてくれないんだもん!「Please〜 Please〜」ってまた囁く。
今日は私たちのおごりならいいよって必ず約束して再び同じレストランへ。
しかし今日も払わせてくれなっかった。店員とぐるになりアラブ語で会話してどうしても私たちのお金を受け取ってくれないのだ。怒ってもニコニコしてるばかり。
3人で食べに行ったらきっとその日の給料なくなるでしょ〜!もうもう、、その後もまた誘われた日があって、お財布置いていくならいいよって言って身体検査までしたのに、またもやどっかに隠してた様子。敗北。なんでそこまでするのかなぁ〜。私達にも払わせてほしい。

ハト ←サーメルとランチに行った帰り、これを見て
「ハトって食べるの?」って聞いたら

「昨日のモロヘイヤスープに入ってたヤツだよ」って。

ぎぇ〜〜〜〜〜〜〜!
一生絶対食べたくなかった食べ物ハト。でも
ちょっと、美味しかった  →モロヘイヤスープ
モロヘイヤスープ

サーメルに頼んで皆でアザーンの目覚まし時計を買ってきて貰う事になった。3〜5JDが現地人の彼だと2JDで買えるそうだ。
次の日それを見た女の子が同じ物を5個頼んでいて、一緒に行ったお昼ご飯の帰り、サーメルがうろちょろしながら時計屋を探していた。
「どうしたの?いつも買ってる所は?」って聞いてみら、
「もう、売らないって言われた。お店のヤツに「お前が安く買って旅行者に高く売ってるんだろ」って言われたんだ。」
必死に何件か探したけどどこも3〜4JD。。。サーメルは困って、いつものお店に行ってお願いしてた。
「もう、これっきりだからね」って言われたそうだ。
もし2JDで手に入らなかったら彼はきっと自腹をきって何も言わず彼女に差し出すだろう。

朝から午後2時まではここのマネージャーが来て、いつもムスッと机に座っている。マネージャーは日本人が嫌い。
日本人がシャワールームで洗濯してるのを見つけるとサーメルを怒鳴りつけたり、ある日本人には「すぐに出て行け!」って怒鳴ったそうだ。ある白人がマネージャーに洗濯したいからバケツを貸してくれって言った所、彼はニコニコ笑顔で「もちろん!サーメール、バケツ!」って言ったそうだ。人種差別で日本人が嫌いなのか、単にサーメルになつく日本人がうっとうしいと思っているのか本当のところはよくわからない。
でもサーメルに対する態度を見ているとやはり人種差別主義者なんだと思う 。
でもここは全く居心地の悪さを感じさせない。やはりサーメルワールドはすごい力がある気がする。

サーメル募金箱

←テレビの下には「サーメル募金」なるものがあって、
お世話になった旅行者がお金を入れていったり、ネスカフェを買ってそっと置いていったりする。サーメルに見つかったら絶対受け取ってくれないので戦いだ。

死海に行った次の日洗濯が沢山でサーメルにバケツを借りようとした。(死海については日記46
サーメルは屋上に連れて行き、洗濯機を使うよう促した。自分で洗うからいいよ〜っていってるのに、力ずくでもぎ取られてしまった。
そろそろ洗濯が終わる時間、、、屋上に行ったら、、、
サーメルがすでに私たちの洗濯物を干してて(←マジ、お母さん(笑))、私の下着の入ったネットを手に持ち真っ赤な顔してた。かわいいねぇ〜。

ある晩の夜、キッチンを使っていたら見たことのないマリオ(中東の人はみんなマリオに見える)が入ってきて
私達をチラ見してから何かサーメルに厳しい口調で詰め寄ってる。胸元をどん!とどついて「ハンッ!」て顔してる。
あとでサーメルに「私達のせいで怒られたの?」って聞いたら「違う。違うよ。」だって。
それでもしつこく追求したら「そうだよ。」って(←キッチンを使ってるのが見つかったから。マネージャーの息子だったらし)。。。。ごめんね。

サーメルは日本人のために本当に尽くしてくれる。
マネージャーに怒鳴られても、一日一回の外出をつぶしても、身銭をきってでも。
ネスカフェ?って小声で囁きながら、「要らない」って言うと、「そんな事ない、飲みたいよね。飲みたいよね。」
って寂しげな顔をする。
彼にとって日本人は家族。旅に疲れた弟や妹をもてなすのは当たり前だって言う。

そんなサーメルの夢は自分のホテル「コーダホテル」を持つこと。
実は近い将来この話が現実になるかもしれないらしい。(←サーメル談)
何度かこんな情報があり、現実にできてないから真相はわからないが。
クリフの近くにある「Mansor Hotel」のマネージャーを引き継ぐことになるかもしれないらしい。
これを読んだサーメルを知る人達は皆喜んでるかなぁ〜。ほんと実現するといいね。

サーメル笑う スタイリング中 ブニィ〜 サーメル寝る
サーメル笑う
スタイリング中
ブニィ〜
サーメル寝る
サーメル怒る サーメルカットする サーメル驚く サーメル笛を吹く
サーメル怒る
サーメルカットする
サーメル驚く
サーメル笛を吹く

ここにふたつのサーメルストーリがある。ひとつは「サーメルの生い立ち」もうひとつは「香田証生さん」
私はこれを読んで涙がとまらなかった。興味のある人は読んでほしい。

サーメルストーリー:生い立ち(サーメルが誰かに話して日本語に訳されたサーメルブックより引用した)

サーメルのお爺さんが第一次中東戦争の頃、イスラエル軍の攻撃から逃げる為パレスチナからここヨルダンのアンマンへ移り住んできた。その後イスラエルが独立を宣言。イスラエルとヨルダン間に国境が出来てしまい祖父ファミリーはパレスチナに戻る事が出来なくなってしまった。
サーメル自身はヨルダンで生まれたパレスチナ人。1974年生まれの32歳の男性で8人兄弟の4番目。

私は自分の家で18年暮らしたがその生活は必ずハッピーというものではなかった。
母は上の兄2人を特に可愛がっており、姉と2人の妹と私の事はどうでも良かったようだ。末の妹、弟が産まれ、やはり老いてからの子供は可愛いのかその2人の事もとても可愛がった。兄弟間でで母から差別を受けるのはつらいことだった。
母は衣服、身のまわりの持ち物、食べ物などで差別をした。
普段から姉と私と2人の妹は充分な食べ物を与えられなかった。母は特にお金に対する執着心が強く、父がちゃんとお金をあげてるにもかかわらず食事はごく質素で可愛がられてる2人の兄達の食事よりも私達は更に少なく、父の帰ってくる木曜と金曜以外はいつもひもじい思いをした。
母は父に見える所だけ取り繕うようなお金をかけ、私達にも綺麗な服を着せ、普段からそうしていたかのようなふりをした。母は本当に些細な事であるときは理由も無く私や姉妹をののしり棒でぶった。もちろんそれは父の居ない所でだった。
私が12歳になる頃には父と母との間に言い争いが絶えなくなった。
私や姉妹は学校が大好きだった。友達がいるし、大好きな勉強もできる。そして何より母に辛くあたられることも無いし、父と母の言い争いを見なくてもすむ。
家に帰りたくなくて私達はよく家出をした。しかし行くあてもなくいつも警察に保護されてしまい、そんな私達を迎えに来るのはいつも父の役目で、父がいない時は兄が渋々くるといった感じだった。母が私達を迎えに来る事はいちども無かった。
父はたまにお土産を買ってきてくれたが私や妹の手に渡ることはまれだったし、母は父がくれた1JDの小遣いさえも取り上げた。ある日父が私に腕時計を買って来てくれた。私はそれがとても嬉しかったが、父が出かけたとたん母はそれを私から取り上げてしまった。きっと兄にやってしまったのだと思う。
ある日母からの仕打ちにたまりかねた妹が、母が普段自分達に少ししか食べさせてくれない事や、母からの暴言、兄達との差別、今まで受けてきた仕打ちを手紙に綴り父のカバンにそっとしのばせたが、それを見た父は「この手紙にかいてある事は本当か?」と母に見せてしまい、更に母の怒りをかい、母からの仕打ちは前よりいっそうひどくなった。手紙については母は父に「あなたに家にいて欲しくて言ったウソだ」と上手く言い包まれ、信じてもらえなかった。

15歳で学校を卒業してから3年間職を転々としながら働いた。仕事はとてもハードで低賃金だったが給料の全額を母に渡すように命じられ、私の手元には毎月5JDしか残らなかった。
交通事故で右足に怪我をしてしまい、1年間働けなかった事がある(サーメルはその後遺症で今も右足を軽く引きづっている)。そんな時でさえ母は何もしてくれなかった。母とのいい思いでは一つも思い出せない。
友達を家に呼んで遊ぶ事も兄達には許されてたが、私達には許されていなかった。大家族の中にありながら私も姉も妹も孤独だった。
私と妹は父と出かけるのが大好きで、本当に楽しかった。休みの日には紅海やヨルダンヴィレーに旅行に連れて行ってくれた。が、母は決して行かなかったし、母がとめたのか兄もあまり行かなかった。
父はずいぶん後になって母が私達にしたことを知ったらしい。
「あの時は助けてやれなくて、気付いてやれなくて、すまなかった」父は私達にそうわびた。

19歳の時クリフホテルで働いていた知人が「お前もここで働かないか」と誘ってくれた。
給料はよくないけど、母のいる家に帰らなくていいし、事故で悪くした右足のせいで他の職業にはなかなかつけなかったので働くことにした。
クリフホテルに来て4年がたった頃、私は精神的に不安定になっていた。
アンマン、、この大都会でひとりぼっちになった気がした。本当に心を許せる友人はおらず、母の家には帰れない。
父にも妹にも会えない。そんな時、死ねるかもしれないと大量に薬を飲んだ。
しかし、薬を飲んでも気分が悪くなり、意識がもうろうとするだけで全く死にそうになかった。(胃薬だったのかな?)自分を傷つけてばかりいた。アンマンは本当に都会だった。こんなに沢山の人がいるのにここでもやっぱり私は孤独だった。

クリフホテルにはあらゆる国から旅人がやってきた。旅人からしたらアンマンなど旅の中継地点でしかないだろう。
そんな中私はあたたかい心があるのを感じた。通り過ぎたあとには忘れてゆくだけのこの宿に私宛てに手紙やハガキをよこす旅人がいた。礼儀正しく、優しく、明るい。振り返ってみると私に優しい言葉をかけてくれたり微笑んでくれたりするのは遠い果て異国の旅人達だった。私は彼らと居て
”あー家族みたいだ”と思った。
何故だか分からないけど日本人の旅人とは心から打ち解けたのだ。
多くの日本人がこの宿を離れる前、ノートに思い出や”ありがとう”の言葉を残してくれた。(宿には情報ノートの他にサーメルブックというのがあって、いろんな人が有難うの言葉を残している)
離れていても忘れない。遠くに居ても思い出す。これはやはり「家族のようだ」と思わずにはいられない。
私の為に泣く人もいた。怒る人もいた。私に為に必死になる人もいた。皆サーメルはどうしてそんなに優しいのというけど、私にとってそれは同じ。知り合って間もない私にこんなに良くしてくれて、こんなに思ってくれるのだから私も私のできる事を大切なファミリーにしてあげたい。
私には帰る家も無いし、家族もバラバラになってしまったけれど、私はここで自分の場所と血の繋がらない兄を姉を弟を妹をたくさん得る事ができたから。今はとても幸せだし、
すごいBig Familyだよ。
今日もどこからか私の兄弟がここにやってくる。私がそれとてもうれしい。
長旅で疲れてやっと家にたどり着いた弟、妹にソファーで休むように促し、ご飯を食べさせたり、お茶やコーヒーを入れる事は自然な事。
私は誰もが家族に対し当然する同じ事をやってるだけだ。

君達が旅を終えて日本に帰った時、君の父や母はどうやって君を迎えるだろう。
私はいつもそんな気持ちで今日も重い荷物を背負い不安げな表情で
「今日、部屋ありますか?」とクリフの扉をひらく日本人を待っている。だた、日本食はだしてあげれないけどね。
荷物をおろし、ソファーにかけて熱いネスカフェを手に君たちがほっとした表情を見るとほっとする。
「おかえり!ようこそクリフホテルへ」
そしてココで休んで地図をみて、また元気に旅立っていく。
私達の弟、妹よどうか無事に旅を終えて日本に帰ってほしい。
そして私の事も思い出して。
いつかまたきっとヨルダンにも帰って来てほしい。ここは君の家でもあるのだから。

そして私はいつも帰らないコーダの事を思う。
コーダはレセプション裏の狭いバルコニーからアンマンのつまらない通りを眺めていた。今でも鮮明に思い出せる。ソファーでノートを見ていたコーダが部屋に向かう後ろ姿、クリフから出て行ったあの日ターミナルからバスに乗り込んだあの日の事を。。。。



香田証生さんについて

2004年10月19日16時ごろ、タクシードライバーからクリフホテルに電話がかかってきた。
「日本人があなたのホテルに行きたがっている。住所を教えて」と、、、
5分後ドライバーと一緒にコーダがやってきた。
「ドミトリーに泊まりたい」と言ったので私は部屋へ案内し、宿帳に彼の名前をかいていた。
すると突然彼が「イラクに行きたい。何処からセルビスが出てるか教えほしい」と言ってきた。
私はセルビスで行くのは危険すぎる。と答えた。セルビスで行くのはツーリストしかいないから狙われる危険があるからだ。するとコーダは「I have to go 」と言ったんだ。
「イラクの子供達を助けたい..イラクで何が起こっているのか自分の目で見て、日本へ帰って人々に伝えたい」と。
私は「もし本当に行きたいのならバスでしか行けないよ」と言い、彼は「OK!今から予約して下さい」と言った。私は予約をしようと思えばその時すぐにできたが彼をとめるチャンスがまだあると思って
「今日はもう遅すぎて予約できないよ。」とウソをついた。
彼は「じゃあ、明日バスを予約して下さい」と言って部屋に戻って行った。(ニュージーランドへ帰るチケットを持っていて急いでいた彼は決意も固く、自分で交渉してミニバスで向えば国境あたりで殺される危険があるのでバクダッドまでちゃんと辿りつけるバスを手配するしかないと思った)

その後コーダはサンドイッチを食べたり、情報ノートをみたりしてた。
彼の様子は他の旅行者と違ってみえた。暫くしてまた部屋から出てきて長い間座って通りを眺めていた。
私は彼の事が心配でバルコニーに行って話しかけた。
「まだイラクに行きたいと思っているの?」
彼は真剣な顔で「Yes」と答えるだけだった。
その時クリフに泊まっていた男性の一人にコーダと話をしてくれるように頼んだ。日本人と話す事でコーダがイラク行きをやめようと思ってほしかったからだ。
2人が暫く話した後、私は何かジョークを言って彼を和ませようと
「まだ気持ちは変わらない?もし本当にイラクへ行ったらアルジャジーラに出ることになるよ。」
と冗談(のつもり)で言った。
もう一人の日本人は笑ったけど、コーダは笑顔を見せなかった。少し怒ってしまったようだった。
彼と話した日本人は「彼はどうしてもイラクに行きたいと言っている。誰も彼をとめる事はできないよ」と言った。

次の日10時ごろコーダは起きてきて「予約はしてくれましたか?」と聞いてきた。
私は予約なんかしてなかったけど、「18時のバスを予約したよ」と答えた。
まだ彼をとめるチャンスがあると思ったからだ。
12時にチェックアウトをしてからも何度も彼に
「まだイラクに行きたい気持ちは変わらないのか?」と聞いた。
14時。バスの予約のタイムリミット。最後にもう一度尋ねた。いくら聞いても彼の意思は同じだった。
コーダはイラクから戻って来るまで、預かっておいてくださいとある物を渡してきた。
それは死海で拾った石とタオル、そしてイラクの子供達の写真だった。
写真は10枚くらいあって、戦争で傷ついた子供達が映っていた。日本人から貰ったと言っていた。

17時頃、昨日話をしてくれた日本人と一緒にコーダをバスターミルまで見送りに行った。
彼は「アッサラーム(さようなら)」と言ってバスに乗り込んで行ってしまった。
彼を見送って2時間後日本大使館に電話することにした。
「2時間前に日本人コーダショウセイがイラクに向いました。まだ国境には着いてないはずです。もし可能なら彼をとめてほしい」
「お電話有難うございました。また何か分かり次第教えてください」とだけ言われた。
その後バクダッドのホテルで働く知人に電話をして日本人が来たかどうか聞いたら来てないと言われた。
そのホテルをコーダに教えておいたから必ず行くだろうと暫くしてまた電話をした。
「確かに日本人が来たけれど、身の安全を保証できないし、ホテルが狙われる危険もあるから泊めてあげれなかったんだ」と言われてしまった。

6日後の26日、夜中の12時頃国連の人(サーメルさんとは知人)から電話がかかってきて、
「日本人がイラクで人質になった。アルジャジーラかNHKをみてください」と言われた。
テレビをつけたら武装集団に囲まれたコーダの姿が映っていた。とても驚いた。ショックだった。
もしアルカイダが要求してる時間内に日本政府が何もしなければ、彼は間違えなく殺されてしまうだろう。そして日本政府は何もしないだろう、、、と絶望的な気持ちになった。
その後日本の外務省から電話がかかってきて、私にコーダの事を色々質問した。半年前同じ日本人3人がイラクで人質になった時は外務省、自衛隊、ヨルダン政府の人もクリフに何度もきて、もっと色々な事を聞かれたし、とても慌しい雰囲気だった。けど、コーダの時はそんな感じではなかった。
3人と同じように助かるだろう、殺されることはないだろうと思ってたんじゃないかな。。
だけど私は危ない...と思った。捕まったアルカイダのグループは危険すぎたから。
その後アジア人遺体発見のニュースが流れたがコーダではなかった。
だけど30日22時テレビのニュースで彼の遺体が発見された事を知った。日本大使館からも彼が殺されたという電話がかかってきた。
2日後彼の家族から電話があって私は謝った。「I’m sorry、、、、、、、、」
彼の家族は「あなたのせいではないですよ」と言ってくれた。
私はコーダが殺されたと知った時に心の中で誓ったんだ。
いつか私の夢である自分のホテルを持てる日が来たらホテルに彼の名前を入れようと、、そして絶対に彼を忘れないと、、、、 、

その後香田さんの家族から名前の了解は得たもののヨルダンの役所から「KODA HOTEL」の許可はできないといわれた。いつか受け継ぐ予定の「MANSUR HOTEL」から名前を変えて再登録することは色々な手続きと時間とお金がかかる。HOTEL名はそのままスタートして、看板の下に日本語で「コーダホテル」や「香田ホテル」と書こうと思っている。日本語だと役所には分からないから。皆にも彼の事を忘れてほしくないと思うから。。

香田さんの事件はサーメルにとってとてもとても重い事だった。自分を頼ってやってきた日本人が自分の手配したバスでイラクに行き、殺されてしまった。引き止められなかった後悔。異国のマスコミに囲まれ、テロリストの疑いと手錠をかけられ、連行された。自分が何とかできなかったのかといつもいつも後悔している。

いつでもいい、世界のどこかでコーダホテルができた!その話を聞ける日を楽しみにしている。
ありがとうサーメル!

クリフホテル

Cliff Hotel
住所:Prince Mohammed st (P.O.BOX184381) Amman
電話:06 462 4273
ドミのみ一人3.5JD(2〜3人部屋) トイレバス共同
情報ノート有り、 キッチンはマネージャー、息子の居ない時のみ。洗濯は部屋の中でできる。

地図

←いつになるか分からないけど、サーメルが予定してるホテルの地図を入れておきます。
「(現)MANSOR HOTEL」

                                                                5月26日
旅の話TOPへ     次の話へ